
おととい、俺は個人憲法を策定した。
以下の内容だ。
まだ3日すら経っていないが、改正だ。
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俺の思想遍歴④ーー個人憲法
2024/9/11
前三回で自分の背景、臨済宗、柳生新陰流とやってきた。今回はその締めくくりとして、いままでやってきた内容を基に個人憲法を発布する。 以後はその憲法の内容を常に念頭に置いて生活する。仕事なり映画を見るなり本を読むなりゲームをするなりすべててだ。絶対すぐ改正される。
俺=人=仏
改正するのは上記の1条だ。
1条といえば大日本帝国憲法だと以下である
第一条 大日本帝国は、万世一系の天皇が統治する
根本も根本じゃねーか!
まぁ全3条だから全部が全部根本なんだが。
「俺=人=仏」正直ずっと違和感を覚えていた。
「=」が2つ続くと無駄に脳のメモリを食う。
連鎖代入には近代西洋の香りがそこはかとなくする。
そういった実利面以上に気に入らないのは妙な「箔」があるところだ。
「俺=仏」はいい。常識的に考えればこっちを消すべきなんだろうが最終的にはこれのみを1条に据える。
問題なのは「人=仏」だ。
街を歩いていると仏さまとすれ違い、仏さまで満員の電車で押しのけ合い、仏さまと仕事する。
そうしていると当然微妙な間が生まれたり時には不快な目にあったりもする。
その際の対応なのだが、ぶっちゃけ「人=仏」であろうがなかろうが変わらない。
ちょこっと会釈したり、スヤセン……とつぶやく程度だ。
正直現代で人道主義を標榜しても、逆に悪逆非道であっても日常生活でやることなど変わらない。
NPO法人の代表だろうが反社だろうが、特に目的もなく街を歩いている時はみな同じようにふるまうだろう。
そうでない場合、それは「仕事」であることが大半だ。
俺の仕事に倫理はない。ただ需要があってそれに供給を果たしているだけである。
俺が個人憲法で定めたいのはそういった職業で決まるような倫理感ではなく、
その辺をぼんやり歩いている時、ゲームで選択を求められる時に発揮される「趣味」の倫理だ。
趣味に打ち込む時ってのはね、一人で静かでなんというか救われてなきゃ駄目なんだ・・・。
俺=仏で十分・・・・・・!!(つーかこれが限界)
そんな趣味の倫理で他人まで仏扱いするのは重過ぎる。脳が混乱する。
仏は俺だけでいい。第一俺一人が自分を仏だと思い込んでも世界は大丈夫だ。
むしろ俺が俺自身だけを救済することで、世界で人間一人が救われるわけだ。
では他人は虫けらのように死んでいいゴミクズになるのかというと、決してそうではない。
もし釈迦が実はそう考えていたのならともかく、自分が仏であれば他人を意味なく殺したりしないだろう。
以前こんなことを書いた。
体が大事だという理由から「健康第一」「食い物大事」が来る。
俺的臨済宗では「仏=すべての生きとし生けるもの」ではない。
仏は人に限定している。だから俺的臨済宗だ。臨済宗本家が動物も仏扱いしているかどうかはまだ調べてないのでわからない。
どちらにせよここは早々変えるつもりはない。動物の殺生に関してはそれが俺含めた人の健康目的ならよしとする。
だから狩猟はOKだ。それで肉がとれれば、もし飢饉が起きた時人と食い物の奪い合いをする機会が極小ではあれど減るだろう。
無論その肉が新たな争いの火種になる確率はないでもないが、肉がない状態よりはマシな世界になるのではないか。
人と争わないことは仏の意思だと解釈している。逆に食いもしないのに動物を殺すことは、それ即ち将来の食料を無駄にすること、つまり人同士の争いを招く事なのでやらない。
これに大した変化はない。
なぜなら他人が飢えれば仏である自分の身が危うくなるからだ。
仮に飢饉のような事態になったら、自分の健康維持分はしっかり確保しておき、
必要不可欠ではない余剰分を、他人が飢えて正気を失わない程度に分けてやるだろう。
自分が貧すれば理性を失い他人を襲い掛かるとも限らない。
博愛主義者、無抵抗主義者にはこの観点がない。連合赤軍もこれで失敗したようなものだろう。
仏であるとは
改正後の個人憲法を見てみる。
やはりシンプルになった。
自分大事、自分以外はとりあえず一回疑え、現状に満足しろ。
よくよく意味を見直すと当たり前のことかもしれない。
一つ一つ吟味していく。
俺=仏
自分自身を仏と同一化する。
禅宗では基本如来というのはそこまで重視せず、念仏を唱える際は南無釈迦牟尼仏という。
釈迦牟尼仏とは人間である仏が如来となった姿の名前をいう。
俺が南無釈迦牟尼仏と念仏を唱えることは自分自身に帰依することになる。
・安全
・健康
・煩悩がない
「俺=人=仏」のころとそう大差ない。
他人を仏扱いせずとも、俺自身が仏であれば、それは他人が仏になることではないのか。
逆に他人を仏のように拝み、涙を流して掌をこすり合わせる人は、仏といえるだろうか。
結局仏は自分の中にしかないのだ。
以下が白隠という禅師が書いた「坐禅和讃」だ。
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを不知して 遠く求むるはかなさよ
譬ば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は 福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆゑに
当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり
衆生本来仏なり で始まり
此身即ち仏なり で終わる。
あまり白隠という禅師のことは知らないが
俺と同じことをいっている人がいる。時間があれば少し研究してみるか。
再審

あれから半日、これもまたどうもしっくり来ない。
「俺=仏」には初めて臨済録を読んだときの清涼感がない。
即人即仏の教えを胸にゲームをするは、客観的に自分と相手を平等に見た上で、
その場における自分と相手と世界の最善手をくだせたものだ。
たかがゲームを介した思考ゲームでもあの時の俺は煩悩を煩悩とみることができた(あれを現実でできたらどれほどいいことか)。
そして「俺=仏」では、煩悩を煩悩と見つけない気がするのだ。
いや見抜けないだろう。煩悩を受け入れているようなものなのだ。
俺は仏であることに間違いはないが、「俺は仏」と文字にすると急に独善になる。
人は仏であることに間違いはないが、「人は仏」と文字にすると急に博愛になる。
禅が不立文字といわれる理由が少しわかった気がした。
どうしても文字に興すと意味がちょっと変わるんだよな。
禅とはひょっとしたらかなりわがままなものなのかもしれない。
なににしても法は文字にしなければ始まらない。
では何を入れるか。
命=仏
結局これしかないような気がした。
溜息まじりに生きとし生けるものすべてが大事だという仏教にありがちなお題目に行き着くとは思わなかった。
要は、生きてさえいればいいのだ。
「俺=仏」「人=仏」
では「俺」は「俺」以上のなにかを強要されているような気がするし、
「人=仏」ではなにか世間の息苦しさのようなものが醸し出る。
その点、「命=仏」。
無駄なものが一気に削げ落ちた気がする。
金があろうがなかろうが、知恵があろうがなかろうが、
将来があろうがなかろうが、五体満足であろうが四肢欠損していようが、
命があればいいのである。それ以外はすべて付属品に過ぎない。
「富貴である」にも通じる考えだ。貯金1億でも1万でも俺は命ある限り富貴なのだ。
「この世は兵法」であるも「命=仏」で一層引き立つ。
枯山水の岩と岩の間の水面が如く、この世のあらゆる現象は命と命の間で繰り広げられる兵法なのだ。
とりあえずこれでいい。
だんだんと文字というものへの憎しみがでてきた。
こいつはさながら帝の言葉を捻じ曲げ民衆へ伝える佞臣だ。